ちろうのレイブル日記

本当によい教育を考えるためのブログです

「本当によい教育を実現するための覚書」を書いてから半年経って思うこと

今振り返るとずいぶん尖ったことを書いてしまったなと思う。口が悪すぎたなと、反省するところもある。この半年でまたいろいろ本を読んで勉強している。とくに公文式について知ったのが大きい。きっかけはおおたとしまさ氏の「なぜ、東大生の3人に1人は公文式なのか?」だ。あるいは東大生の2人に1人がかつてピアノを習っていたというらしいが、それはさておき、東大生の3分の1がかつて公文式に通っていたというのが本当ならばこれは驚くべきことだと思う。僕も子供時代、自分の街に「くもん」と言う名の塾があることは知っていた。そしてそんなところに行ってまで勉強する必要は全くないと考えていた。むしろ学校の勉強についていけない落ちこぼれが行く場所だと思っていた(田舎者なので)。もしかしたら僕が東大に行けなかったのは公文式をやっていなかったからかもしれない(ただし、受験もしていない、笑)。

なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?(祥伝社新書)

なぜ、東大生の3人に1人が公文式なのか?(祥伝社新書)

んで、これをきっかけに創業者の公文公(くもんとおる)氏の自伝本「やってみよう」や、くもん式の国語教材を作った人たちの物語公文式国語の「方法」」を読んだりして、やはり公文式が「本当によい教育」の雛形を既に作っているということを確信した。もちろん批判されるべき部分はあるのだろうし(特にアンチ公文式とも言うべき一派がいるのが興味深い)、フランチャイズの全国展開だからきめ細やかさは犠牲にしているのかもしれないけどね。でもその教育理念と実践には目を見張るものがある。何よりも重要なのは安価な価格設定と自主性を従事する方針だ。

数学1教科であれば月額6000円とのこと。隙あらば授業料を搾取しようというこのご時世において、月額システムは良い。そしてじゅうぶん安い。また、やっぱり勉強っていうのは自主性が絶対に欠かせないと思うのよね。というかやらされる勉強など百害あって一利なし。害悪でしかない。いかに勉強の自主性を刺激して発生させるかどうか。あ、このまえ浅田彰氏が「勉強」という言葉が大嫌いだと言っていた。「勉めることを強いる(だっけ?)」とか最悪だとかなんとか。。。たしかに「強いる」って無理やりやらせるってニュアンスだよね。ふむ。ここでは「学習」という言葉にしておこう。

そして学校のテストの点数を上げるためというよりは、学力の土台となるものを作るためという意識がいい。宿題とかいう概念もなく、ざっくりと学年ごとに合わせたレベルのものを、スモールステップで自分にあったところから、いくらでも進めていけばいいというやり方。人それぞれレベルがあるのだから、それでいいのだと思う。

くもんの方針に合う人もいれば合わない人もいるらしい。そんなのは当たり前だ。万人にフィットする教育法などあるわけがない。でもいたずらに授業料だけを搾取する巷の学習塾・予備校に比べれば良心的なのではないだろうか。来るものは拒まず・去るものは追わず、という精神だ。僕も教育には絶対にその精神が合致すると思っている(熱血教師なんかクソくらえだ)。


■現状を打破する最強の方法は何か

個別指導塾というところで実際に子供を目の前にして指導していると(ちなみに偏差値50以下がデフォ)、基本的にはストレスが溜まってくる。なぜこんなにも勉強ができないのだろう、あるいはやる気がないのだろう。言われたことをやらないのだろう。だらしがない。生気がない。覇気がない。だるそうにする。コミュ障。サボり。頭を使う前に「分からない」と言う。自分にはできるはずがないという態度、学力的弱者の立場の先取り。特にまずいのが以下の3タイプ。

1.学習障害レベル
まあこれは説明するまでもないですが、中学生であっても単純な加減の計算を間違える、四則計算の順番を無視する、九九を間違える、字がまともに書けない、ということがある。これは正直、障害なのか極端な怠惰なのか、まあつまり先天的なものか後天的なものか、分からないので難しい。ただ確実に言えることは、語彙力が圧倒的に足りていないということ。それに加えて、脳への、あるいは脳からの指令が届く速度が圧倒的に遅く感じる。シナプスのつながり具合とかそういう事なんだろうか。そもそも言葉を問いかけても返ってこない。これは重症だ。これ普通に失礼な話だからね。目の前の俺を無視するんじゃねえ!ちなみに僕は「コミュ障」という言い訳を認めない。反応しないって明確な意思表明だからね。「それ失礼なことだよ」って教えるのは大事だと思う。

2.すごく真面目なのにぜんぜん力がないタイプ
素直である、真面目であるという点においては学習に向き合う準備は整っているのだと思う。でもよくよく聞いてみると基礎が圧倒的に足りていない。英単語を知らずに英文を読もうとしていると言いますか、理科・社会の重要語句なんかまるっきり覚えていない(というか知らない)のですが、そもそも日本語の語彙が足りていない。新しい言葉を聞いても、名は体を表すといいますか、名前が意味を表しているということ(ルール)がそもそも分かっていないので、新出単語をまるで外国語か暗号くらいに捉えている。そりゃ覚えられるわけがない。これ英語でもあるよね。なんとなくだけど、あるいは習ってなくても「er」はそれをする人を表すとか、「an」「dis」は否定の意味になるとか「ism(イズムでもいい)」が考え方とか価値観を表すとかさ、そういうルールに対する感度。元になる語彙をまず覚えることが先決なのだろう。

3.やれば出来るのにやらないタイプ
比較的言葉を使いこなす力があり、理解力も早いのだが、とにかくやる気がないタイプ。これはある意味もっともいけない。驕りがあるのかもしれませんね。このタイプの対処法は「徹底的に自信を挫く」というのが一つあるんじゃないだろうかとは思っている。まだ自分の中でそれが正しいのか自信はないけど。「お前じぶんが出来ると思っているかもしれないけど、全然だからな」とかなんとか。このタイプにはあるていど厳しさが必要。

まあとにかくいろんな問題があるわけだが、目の前の、例えば一つの数学の文章問題を懇切丁寧に解説するのは抜本的な解決にならないと思う。どうせろくに理解していないし文章構成が少し変わったら解けないだろうし、もしかしたら同じ問題をもう一回やらせても解けないかもしれない。それは文章の意味を理解していないからだ。文章を論理的に読み取って、数式で表現するということができない。ある意味翻訳ですよね。日本語を英語に変える、みたいな。日本語を数式に置き換える。たとえば「十の位の数と一の位の数の和が9になる二桁の自然数」の具体例を挙げられるかどうか。これは結構試金石になりますよ。この例が挙げられないパターンって多いですよ。まず第一段階が具体例を挙げられること(45とか72とかそういう数字ですね)、その後にこれが9の倍数になることを示せってことになるわけですが(そして完答したあとに「まあ九九の9の段の数字だし当然そうなるわな。んでそれが9の倍数であるとはこんなふうに示されるのか」という感動があればなお良し)、例が挙げられない時点で解ける訳ありませんよね。日本語の意味が分かっていないということですから。他にも「○○の■割が△△」や「○○は△△の■%」における、間の日本語を全く無視しているとか、「〜割」と「〜割引き」の区別が全くできないなどです。本当に日本語を読んでいるのでしょうか??言葉を乱暴に扱っているのです。「は」とか「が」とか「の」とかちゃんと区別せずに適当に答えている。


たぶん、「言葉の意味を厳密に理解する」→「その内容を再現する」ってことを放棄してきたんじゃないかと思うんですね。そういえば内田樹先生が、大学生(最近の若者)は文章に分からない言葉があっても適当に読み飛ばすスキルを身に付けているって言っていました。だから驚くべき誤読がある。読み飛ばしがある。分からない言葉があることに対する「嫌な感じ」とか「不安」がスルーできるんですね。これがすべての根源であり、小学生か、あるいは幼少期からそういうものが始まっているんじゃないでしょうか。

中学校レベルの定期テストで点数が取れないとすれば、その「わからない言葉があっても気にしないという態度」に全ての原因があるのではないか。そんな気がしています。だからその態度を改めなければいけない。そこに学童期に最も重視すべき課題があると僕は思う。昔は漢文とか論語とか、意味も分からず素読(暗誦)させられたと言いますよね。まあそれは現代には難しいにしても、ある程度論理的に筋の通った、ついでに教養(歴史や自然に関する知識)も同時に身につけられるような短文(←これ重要)を、徹底的に読む・音読する訓練が良いと思う。そして教育者が、一字一句、すべての言葉に対して意味を説明する。意味が完全につかめていれば、確実に音読ができる。こういう経験をいかに積み重ねられるか。

そこで公文式国語」が実に良いんですね。それが具体的にどういうものかというのは詳しく書けないんですけど、実に良いと思います。これは大きなヒントにあるなあと考えています。

言葉を正しく使う。厳密に使う。美しい言葉を使うってのは、これからの世の中においてものすごく重要になると思います(今も昔もだと思いますけど)。その正確さと豊富さって確実に相関しますよね。だからこそ語彙力なんです。コミュ力も語彙力。反射神経も語彙力。道徳も思いやりも倫理観も全部語彙力で解決ではないでしょうか。教養と言っても良い。まあこれは言いすぎかもしれませんが。「道徳」の授業とか要らないので、すべて「国語」にしよう。「国家の品格」「日本人の誇り」で著名な藤原正彦先生の言葉「一に国語、二に国語、三四がなくて、五に算数」。真理ですよね。これを数学者が言っているのだから味わい深い。

祖国とは国語 (新潮文庫)

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まあそんな感じのことを、日々もんもんとしながら考えています。

もしご興味がある方は、僕の同人誌をぜひ読んでいただけませんでしょうか→「本当によい教育を実現するための覚書」
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