ちろうのレイブル日記

本当によい教育を考えるためのブログです

古谷経衡「「意識高い系」の研究」がすごく良い

文筆家の古谷経衡(つねひら)さんの著書「「意識高い系」の研究」を読んだ。これがすごく良い。簡単に言うと、「意識高い系」とは何かという定義から入り、そのような人間を糾弾するという内容。かつてはこの言葉には「意識高い系(笑)」というふうに(笑)が付けられていたが、今は特に(笑)を表記しなくてもニュアンスとして含まれていると言っていい。

「意識が高い」というのは本来であれば望まれるべきことだ。「意識高い系」という言葉には侮蔑のニュアンスが入っているが、そうすると不当な侮蔑や言葉の誤用に陥ってしまうのではないかという向きもあるかもしれない。しかしそこは心配無用だ。本当に意識が高く、偉大な成果を出したり、あるいは努力の最中にある人は、それは単に「意識が高い人」であり、「意識高い系」とは似て非なるものだからである。そして「系」という表現についてもこんなふうに考察している。


若者言葉の中での「〜系」は「もどき」というニュアンスを含んでいる。
(略)
「意識高い系」の「系」は、この「もどき」「類似品」というニュアンスが強く混入している。それは、真に「高次の大義」を実行している古今東西の偉人と比較したときに、どうしても彼らが客観的に見て明らかに劣後しているからであり、よって彼らと鑑別するために「もどき」のニュアンスを含む「系」という単語をつけるしかなかったのではないか、と推察するのである。
そして私も、そのような意味で彼らを「意識高い系」と呼ぶことに大いにポジティブである。

この調子でやたらと硬い表現でディスが続いて笑える。僕もこれには大いに同意。積極的に「意識高い系」という言葉を使っていこう。
(本書には「意識高い系ホイホイ」あるいは「意識高い系警察」とでも言うようなコラムも挿入されていて面白い。「食べ放題」は嫌うが「バイキング」には嬉々として参加するとかwwww二次会には床一面が湿潤しているようなラーメン屋に行けとかww)



本書の重要なポイントは、「意識高い系」と「リア充」を明確に区別するための、「リア充」の定義だ。「リア充」とは言い換えれば「ジモティ(先住民・地元民)」であり、その存在は「意識高い系」の裏側に隠れており観測できないものだという。この定義づけは目からウロコだった(他にも「不動産を相続している、土地に土着している、スクールカースト上位」などの条件がある)。観測できない理由は、彼らは人生に満足しており、世界に不満がなく、ゆえにSNSでイケてる自分を公開する必要がないから。

僕は原理的には(つまり自分がリア充でないという意味において)どうしてもアンチ(=not)リア充だし、しかもざっくりと「彼氏/彼女がいる=リア充」という認識をしていた。というか目の前の信頼している人間に「恋人がいる」ということが発覚したら、儀礼的に/礼儀として「リア充かよ(笑)」とツッコミを入れるようにしていた。しかしこれは大きな間違いだった。なぜなら「リア充」とは恋人の有無には全く関係がなく、社会階層を示す言葉だからだという。とにかくこの「リア充」の定義には、より頭が整理された気がした。まさにモヤモヤしていた概念に言葉を与えられた感じ。いかに曖昧に言葉を使っていたかと思わされる。


本書は古谷氏の軽快な(執拗な)「意識高い系ディス」が続くが、根底にあるのはむしろその向こうにいる「リア充」に対する強烈なルサンチマンと、人生をかけた決意だ。自分を相対化することを忘れず、決して意識高い系の闇に陥らないという決意。ダサくても泥臭くても、人生をかけて少しでもリア充(=支配者階級)に近づく宣言。このような態度に僕はとても共感するし、感動した。僕自身の想いを代弁されているようだった。

すごく熱い気持ちになれる本です。

「意識高い系」の研究 (文春新書)

「意識高い系」の研究 (文春新書)