ちろうのレイブル日記

本当によい教育を考えるためのブログです

ぼくの平成史を振り返る

平成という時代を通過したので、僕の平成史を振り返ってみたい。

 


■平成元年(1989年)5歳
総和保育園。記憶なし。

 

■平成2年(1990年)6歳
高山市立北小学校入学。

 

■平成3年(1991年)7歳
■平成4年(1992年)8歳
■平成5年(1993年)9歳
Jリーグ開幕。
サッカー少年団に入らされて、トラウマになる。この件に関しては、母親を生涯絶対に許さない。明確な子育て失敗だと思っている(ついでに言うと低学年時にボーイスカウトに入れられたことも)。

 

■平成6年(1994年)10歳
サッカーを辞めて、スイミングスクールに通う(初めての自分の意思での習い事)。これは皆勤賞を取るなど、自分に合っていたようだ。

 

■平成7年(1995年)11歳
阪神淡路大震災。よく実感していなかった。
修学旅行で京都・奈良。
なぜかシャ乱Qにめちゃめちゃハマった。たぶん「シングルベッド」「ズルい女」「空を見なよ」が良曲過ぎたため。「THE夜もヒッパレ」をよく見ていたから。

 

■平成8年(1996年)12歳
高山市立中山中学校入学。陸上部に入る。
(ちなみに2学年上の兄が、この年にサッカー部ながら陸上競技の県大会の1500mで優勝したり、駅伝の県大会で区間賞、優勝→全国大会出場などして、その背中を見る。とりあえずすごかった。あと生徒会長もやっていた)
SPEEDがデビュー。島袋寛子がとにかく好きだった。


■平成9年(1997年)13歳
ASAYANでオーディション企画が始動。当然の如くモーニング娘。を好きになるが、きっかけはシャ乱Qつんく)が好きだったことによるもの。モーニング娘。デビュー。
いつから始めたか忘れたが、市民時報という地域新聞を配るバイトをして、月12000円ほど稼いでいた。ごくたまに親に手伝ってもらったが、それが一般的なお小遣いの代わりということで。それで欲しいと思うものは基本的に我慢せずに何でも買えた。
それでSPEEDのCD、モーニング娘。のCDなどはほぼ全て発売と同時に買っていた。

 

■平成10年(1998年)14歳
生徒会長を務める。なんにもしなかった。
秋の駅伝の県大会で3位入賞。僕は区間2位だった。その時の区間賞だったのが一学年下の別の中学の奴で、のちに高校の陸上部で後輩になった。
ナゴヤドームにSPEEDのコンサートを見に行った。遠すぎて良く分からなかった。

 

■平成11年(1999年)15歳
高校入学。陸上部に入る。

 

■平成12年(2000年)16歳
陸上の新人戦という県大会で3000m障害で2位になる(ちなみに2年前に兄が優勝している)。
このあたりで初めてケータイ電話を買ってもらった気がする(今は亡きJ-phone)。

 

■平成13年(2001年)17歳
9.11同時多発テロ
部活では良いとこなし。受験はぼちぼち。ろくに頑張らずに行けるところで、って感じ。
受験勉強がイヤだったので引退後にも部活に行き、11月に行われる校内マラソン大会(14キロ)に照準を定めてこっそり練習を積む(現役の陸上部は駅伝大会があるため毎年不参加、僕自身この年が初参加だった)。
それで2位に4分の大差をつけて圧倒的な優勝を飾る(2年前に兄が優勝している)。
クラスの平均順位でランキングを付けていて、このときクラスが全校で一位、前年も僕が不参加だったにもかかわらずクラスが全校優勝しており、不思議と皆長距離がつよいクラスだった。やはりサッカー部、バスケ部、野球部などは安定して強い。

 

■平成14年(2002年)18歳
岐阜大学教育学部に入学。陸上部に入る。部活しかやっていない日々。酒好きの先輩と仲良くなってよく飲んでいた気がする。先輩にはずいぶん可愛がってもらった。
家庭教師のトライの内部のバイトを2か月やっていた。マジでトラウマだった。二度とこんな思いはしたくないと思った。
そのバイト代を使ってヤフオクで車を買った(ミニクーパー)。

 

■平成15年(2003年)19歳
大学2年。春の新入生歓迎花見で、ウイスキーを一気飲みして意識を失ったりしていた。
先輩の影響でGLAYが好きになった。今さら感はあったが、いい思い出。

 

■平成16年(2004年)20歳
大学3年。
7月にGLAY EXPOを見にUSJへ。前日にUSJを遊び倒したのと夜に前夜祭ライブが生で見れて、一緒に行った子がバイトがあったため結局ライブ本番が見れずに一緒に帰ったが、ほろ苦くもめっちゃ楽しくていい思い出。
秋には教育実習などに行っていた(9月に中学校、11月に小学校)。楽しくなかった。

 

■平成17年(2005年)21歳
大学4年。4月の東海インカレ(東海地区の大学生の大会)で最後の華々しい大活躍をする。1500m、3000m障害、5000mの3種目全てにおいて自己ベスト更新、入賞(6位、7位、8位)という偉業を達成。燃え尽きる。
岐阜県選手権という県大会で3000m障害で2位入賞(1位が名古屋大学の兄に惜敗、飛騨の稲垣兄弟の名を轟かせる)
その勢いで人生で最初で最後のフルマラソンを走る(非公式、3時間17分)。
無理がたたったのか夏ごろには足(腸脛靭帯)が痛くなって、事実上の引退(そこから今に至るまで、長い距離が走れない。登山なども厳しい)。
愛知万博長久手)を見に行った。たしか会期の後半ギリギリだった記憶がある。行って良かった。
夏に教員採用試験を受けるも一次試験で不合格に。岐阜県教育委員会を許さない、二度と教員採用試験など受けるか、と決意する。そして上京してお笑い芸人を目指すという進路がいよいよ現実味を増す。
合宿と銘打った、ただの泊りの旅行を色々企画し、仲の良い先輩と後輩で和歌山(温泉&BBQ食べ放題)行ったりお互いの地元(高山とか愛知県の端っこ)行ったりしてて、これが大学生活で一番楽しかった。
卒論が本当に嫌すぎてトラウマになり、今でもたまに「大学卒業が迫っているのに卒論を書いていない」という夢を見る(大学に入り直して同じ結末を迎えるという夢)。大学卒業が迫り、採用試験は落ち、就職も決めていないという状況で部活に行き、同期や後輩たちに変な気を使わせていたのだろうなと今になって思う。
大学を通して華やかな青春はなかった。

 

■平成18年(2006年)22歳
大学の卒業旅行は韓国と九州一周。
大学卒業後、東京へ進出。高円寺のボロアパート和室六畳一間、風呂なし家賃37000円に住む。お笑い芸人になるとかいう寝言を抜かしてワタナベのコメディスクールへ(10月入学)。ここに通いながらコンビニ(スリーエフ)でバイトを始める。これで東京のリアルというものに少しは触れたのかもしれない。ここのオーナーがパワハラ体育会系お祭り系ロークラス低学歴(アンチ高学歴)マイルドヤンキーだった(右腕がガングロギャル)。4年くらいバイトしてたけどずっと嫌われてて、最後の日も一切の挨拶もなかったしこちらからもしなかった。挨拶なしってすごいよね。これはキヨキヨしかった。

ヲタ活的にはAKB48にハマった。

 

■平成19年(2007年)23歳
1月2日から大学の先輩、後輩らと沖縄2泊旅行。こんな時期に旅行したのは人生初。
9月にコメディスクールを卒業した。何者にもなれなかった。惰性でインディーズお笑いライブにも出たような気がする。記憶が崩壊してる。
AKBヲタ活が全盛で、100MVPを行使したり、生誕委員で充実したり、ヲタ仲間と朝までファミレスで過ごしたりするのが楽しかった。転売にも手を出し始める。

 

■平成20年(2008年)24歳
AKB劇場に徐々に入れなくなるのに伴って、悪いヲタクになる。ガチャをたくさん買ったり、チケットをたくさん買ったり、写真をたくさん買ったりする。小林〇〇ちゃんの生誕実行委員長を機に燃え尽きる。指原莉乃ちゃんと出会う。地下アイドル(ももクロなど)が熱くなってくる。メイド喫茶に目覚めて通いまくる。

メディスクール時代の同期のよいこさんと伝説のエンタテインメントユニット「ダイナマイトキャッツ」を結成。何回か事務所所属オーディションライブに出る。これも多分5,6か月くらいで解散を迎える。だけどその後いろいろな縁があり、関係は今でも続いている(のちによいこはYoutuberに→

よいこチャンネル - YouTube

)。

 

■平成21年(2009年)25歳
コンビニバイトを辞めて本格的にニートになる。とにかくヤフオクをがんばる。地下アイドルをちょこちょこ開拓し始める、メイド喫茶遠征期。毎日遊んでた。

 

■平成22年(2010年)26歳
高円寺のボロアパートを引き払って、元々姉が住んでいた目白のマンションに引っ越す。クラスアップ(親に感謝)。
アイドル戦国時代の幕開け(ももクロ東京女子流スパガぱすぽ☆デビュー)。個人的には引退。
海外旅行に目覚める。1月にタイ。3月に台湾。10月に香港・マカオに旅行。(台湾・香港のメイド喫茶にも訪れる)(香港のAKBショップ開店を記念した握手会に参加するというヲタ活)

 

平成23年(2011年)27歳
ハローワークで職探しの日々。3ヶ月だけ出版社でアルバイト。ちょっとFXにも手を出す。

3月に東日本大震災。ちょうどバイトで、編集部員を装って慣れないスーツ着て某大企業の応接室に乗り込んでいるときだった。すぐに帰社して、帰れない社員がいたこともあり、社長の鶴の一声でなぜか池袋で終電近くまで飲んだ。僕は徒歩で帰宅。
(このバイトは何回も正社員になることを勧められ、何回も断った。その話を母親にしたので、未だにあの時の社長に頭を下げて雇ってもらえんか?と言ってくる。正社員信仰なので)

夏に某たかめがの手伝いでコミケに売り子として参加。創作意欲がふつふつと沸いてきて、俺がやるしかねえと決意する。

12月、冬のコミケに向けて初めての同人誌「AKB48とは指原莉乃のことである」を作る。150部くらいを手作りしたが、ペラ紙に両面印刷して、製本加工してもらったらとんでもない手間がかかった上にコストも高くついた。恥ずかしいくらいのクオリティだが、良い勉強になった。指原さん本人にも渡した。

 

平成24年(2012年)28歳
2月に一人で沖縄、久米島へ。ギークハウス沖縄にお世話になる。久米島の居酒屋でバイトしようとして3日で逃げ出す。沖縄では北谷の中日ドラゴンズのキャンプで山本昌さんにサインをもらうなどする。
5月に大分へ聖地巡礼。大分芸短大で「指原莉乃論」という謎の講義を聴講。
宇野常寛さん、濱野智史さんが主宰するPLANETS「AKB研究会」の門を叩く。6月にAKB総選挙、指原さんのHKT移籍、ゆび祭り。8月のコミケでは「指原莉乃2.0」を作成し、印刷会社でつくる本の美しさに驚愕する。
宇野さんに「ちろうのAKB体験記」を連載することを勧められ、濱野さんとは共に地下アイドル現場に入り浸る。アイドルカレッジにハマる。
この年くらいで、AKBグループの通常版CDを大量購入するという消費行動を辞める。

 

■平成25年(2013年)29歳
4月に福岡へ。HKTの握手会とNMBのコンサートを回す。
6月に大分聖地巡礼指原莉乃さん初めての総選挙1位獲得を、地元大分の人たちと一緒に盛り上がる。
8月に同人誌「指原莉乃に会いに行く」を作成。
9月にアイドルカレッジ名古屋・大阪遠征。


平成26年(2014年)30歳
8月「アイドル<ヲタ>になる方法」「ちろうのAKB体験記」を作成。縁があって田中秀臣さんに寄稿、岩崎夏海さん(ハックルさん)にインタビューをお願いする。
池袋西口公園で「肉汁祭り」を盛り上げるアイドルユニット「肉汁ガールズ」に出会う・・その後、月野もあちゃん、黒瀬サラちゃんに辿り着くのに時間はかからなかった。仮面女子にハマる。

年末に某所で学童保育の仕事を始める。

 

平成27年(2015年)31歳
年をまたいですぐに学童保育の現場が大いに問題を抱えていると思って辞める。すぐに個別指導塾での仕事を始める。これは今でも続いている。それに伴って、自分も勉強にハマる。
アリス・イン・アンダーグラウンドの世界に迷い込み、同人誌「仮面女子の研究☆」を書く。

 

平成28年(2016年)32歳
同人誌「アイドルと文学 vol.1」(偶像少女文学会)に超絶アイドル論考「あなたは仮面女子を推してもいい」を書く。
年末に同人誌「本当によい教育を実現するための覚書」を書く。

 

■平成29年(2017年)33歳
自分の勉強を継続しつつ、講演に行ったり本を読んだりざっくりと教育について考えていた一年。インプットの一年。

 

■平成30年(2018年)34歳
小説を書き始める。アウトプットに転じる。

 

平成31年(2019年)35歳
元号が平成から令和に変わる。

 


コメント:
2016年の初めにこんなエントリを書いています。

これまでの10年間を振り返ってみた(ヲタ活編) - ちろうのレイブル日記

これはハックルさんのブロマガに倣ったもので、今回もまたそうです。


ハッキリ言って平成初期の記憶はないです。小学校低学年とかですから。基本的に部活がらみと、好きな歌手やアーティストの遍歴が記憶にかかわってきますね。わりと恥ずかしい記憶もありますが、いろいろさらけ出してしまいました。部活のこととか書きすぎ。兄が登場しすぎ。トラウマ抱えすぎ。だけど正の方向にしろ負の方向にしろ、記憶に根強く残っているものが、その人の価値観を形作ったりしていますよね。つまりは本質なんです。だから僕はトラウマと向き合いたい。

 

東京来てからはヲタ活と同人誌活動ばっかりですね。


皆さんも振り返ってみてください。何卒よろしくお願いします。