ちろうのレイブル日記

本当によい教育を考えるためのブログです

個別指導塾などでそこらへんの子供を見ていて感じること

すべてのメッセージはある人にとっては正しくて、別のある人にとっては正しくないのだから、まずはその大前提を把握した上で、自分にとってはどうなのだろうという視点で物事を考えないといけない。そこでは「自分にとってこれは成長につながりそうだ」という意見や考え方は貪欲に取りに行くべきだし、「これは間違っている、自分には合わない」と思えば無視してよいし、別に攻撃しに行く必要ももちろんない。

これはある程度高度な頭の使い方というか、成熟した精神のあり方です。つまりは精神年齢が高いという状態です。オープンマインドで、脳の可塑性を確保しておかなければいけません。これが生まれた時から自然とできるという人は、よほどの例外を除いていないのだと思います。だから子供にこれができないというのはまあ分かる。経験が浅かったり、深く思考するということに慣れていないだろうから。高校生、大学生、社会人となっていく過程の中で身につけていくべきものなのだろう。

大人になってもそれを身につけられないと少々厄介なことになる。「自分は長くこれでやってきた」という間違った方向での自信をつけてしまうからだ。固定観念と、それなりに何とかなってきた経験をもとにして、自分の理解できない価値観・気に入らない意見を条件反射的に非難してしまう。自分の知らないものの価値を低く見積もって、攻撃してしまうというのは、成長の望めないとても愚かな態度だ。だけどそういう大人は一定数いる(主にTwitterとかに)。

当然ながらそれは大人になってからできなくなったわけではなく、子供時代からできなかったのだろう。そして塾という場所で子供たちを見ていると、たしかにほとんどの子供が全ての情報をフラットに捉えて自分にとって有益かどうかという検証をしていないように思える。だからその中のできる限り多くの、できれば全員を、そのような成熟した大人に成長させるのが教育者のやるべきことなんじゃないかということを考えている。ただそれはなかなか簡単な話じゃないですね。


■そこらへんの子供を見ていて感じること


彼ら彼女らは「有益かどうか」じゃなくて、「気持ちいいかどうか」とか「めんどくさいかどうか」で決めていたり、「勉強している感じだけ与えてくれる作業」はいろいろ取り入れるが、それが何の役に立っているかは気にしていないというようなこともある(テキストの重要語句にマーカーで色をつけるとか、評論文の接続詞を○で囲むとか、同じ漢字や英単語を何回も書くとか)。作業をこなすことにこだわり、それがどの程度記憶に定着したか、今この瞬間に再現できるか、といったことは気にしない、とか。教育者(僕)の割と本気なアドバイスとか注意とか叱責とかを、なんの気もなしにスルーしたりする。

むろん、彼らなりに考えた結果の判断なのかもしれない。「何か言われたけど、それは役に立たないだろうから切り捨てる」という判断。それならそれで大したものだ。僕としても目の前の相手を尊重したい。あるいは単に「めんどくさいから」という人がいるのも分かります。こういう時にこそ「自己責任」という言葉が現実味を帯びてくるでしょう。当然テストでは良い点は取れません。

だけど、そのレベルに達していない、そもそも「判断」と呼んで良いものかどうかも分からない、というか「聞いていない」んじゃないかと思う時がある。言葉とか日本語として理解されていないというか。眠そうにしてる、ってゆうか半分寝ている時なんか典型だし。それでなくても音声言語を介して伝わっていないなという時がある。これ、意見を取り入れるか取り入れないか判断、というレベル以前の問題なんですよ。思考停止。というかもともと動いていないんだから思考無発動ていうのが正しいのかな(まあでもこれが近代の工場人間にはうってつけの人材なんだろうという気がしないでもない。だからこの人間社会は発展してきた)。

ここまでくると、コミュニケーションの作法というところから教えないといけないんじゃないかなと思っています。目の前の相手は今、何を言っているんだろう、と理解する。反芻する。そこから。僕自身は塾というものに通ったことがないし、そもそも個別指導塾ってここ15年くらいで急成長した業態だと思うから本当に分からないんだけど、個別指導ってある程度緊張したり、ピリッと気が引き締まったりするものじゃないんですか?僕が教わる側だったら間違いなくそうなるんですけど。自分が子供で、目の前の相手が大人(あるいは大学生)なわけだし。だけど思考無発動な子供は、これまた結構な割合でいるような気がする。ま、個別指導塾が受け入れられた理由が「仲良しお兄さんお姉さん講師」っていう部分だったことの弊害なのかなとも思ったり。

グローバル化して、従来の人間の労働がAI化していくこれからの時代において、自分の頭で考えて判断する力がますます必要になるよ、っていうのはもう今更いう必要もないくらい当たり前なことで。むろん、これも当てはまらない人も少数はいるのでしょうけど。
なんか話がとっちらかっちゃたのでこの辺にしときます。



「いい大学に行って、有名企業に就職するのが勝ち組」と「大学の偏差値は関係ない、大学行く必要ない、起業しろ、フリーランス万歳」
「いつかは持ち家、マンションは分譲(家賃は損)」と「人生の流動性、将来の予測不可能性を考えたら賃貸」

教育論で言えば
「幼少期から英語に触れておいたほうがいい」と「母語(日本語)を充実させることが先決、国語力が高い人のほうが、あとから外国語を習得しやすい」
詰め込み教育ではなくアクティブラーニング」と「受験は暗記」
「中学受験で難関私立」と「公立校で多様性重視」
「これからはプログラミング」と「プログラミングスキルが必要とされる(使い物になる)人はごく少数」
「東大」と「海外の大学」
「都会」と「地方」
「塾は当然行くべき」と「塾は必要なし」

小学生〜高校生においては
「文系」と「理系」
「公立」と「私立」
「ノートに書く」と「ワークに書き込む」
「ベクトルで解く」と「図形的に解く」

こんなもん人それぞれ違って、万人に当てはまる答えはないわけです。状況に応じて変わることもある。だいたい小学生が知っておくべきことわざにだって、意味が真逆のものがあるじゃないですか。ことわざって人生の教訓ですけど、状況によって意味が真逆なものを使い分けているんですから、それが本質ですよね。「三度目の正直」とか「二度あることは三度ある」とか「仏の顔も三度」とか?
「三人寄れば文殊の知恵」と「船頭多くして船山に登る」とか。どっちやねんという。
「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き」とか。
風が吹けば桶屋が儲かる」とか無理筋だし。ま、面白いんだけど。
大切なのは条件反射的に答えを出すんじゃなくて、じっくり考えること。

それぞれが自分の頭を使って、情報を集めて、自分で判断しないと。むろん、僕自身もいろいろ考えた結果、自分の中での最適解というものはあります。一つ一つ詳しく書くにはあまりにも余白が足りない(?)ですけど、「絶対こっち」というものもあれば「たぶんこうじゃねえかな」というものもあれば「二つに一つじゃねえ、両方や!」というものもあります。それをちょこちょこ書いているのがこのブログとか、同人誌とかです。

人に聞いたからこうだとか、世間的にこう言われているとかじゃなく、自分で判断する。そのためには情報をちゃんと仕入れる。人の話を聞く。本を読む。そういうことを、現代に生きる全ての人、もちろん大人も子供も、やるべきなんじゃないですか。そういう訓練を、せめて目の前にいる子供たちにしていきたい。