ちろうのレイブル日記

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さやわか著「文学の読み方」について

ライターで評論家のさやわか氏の新著「文学の読み方」を読んだ。僕がさやわか氏を知ったのは、ゲンロンカフェで濱野氏、もふく氏と共にトークイベントに出ているのを見た時で、そこで購入した「AKB商法とは何だったのか」というセンセーショナルなタイトルの本を読んだ。これが非常に丁寧に歴史を追いながら、安易にAKB商法的なものを批判するのでもなく称賛するのでもなく、フラットな視点でまとめているのが、すごく良書だと思いました(書評も書いています)。特に昨今のオリコンチャートの話は面白くて、僕の同人誌「仮面女子の研究☆」の中でも言及させていただいた。これは後に「僕たちとアイドルの時代」(星海社新書)と改題されて出ているから、今ならこちらがオススメ。

そんな風に注目していたわけですが、同時に僕は林修先生の影響で日本文学とかに興味を持ち始めていて、今更Amazonで国語便覧を注文したり、出口汪先生の「早わかり文学史」とかを読んだタイミングだったので、さやわか氏が「日本文学の読み方」という本を出したと知ったら一も二もなく購入することになった。

本書は芥川賞の歴代最高売上を記録した又吉直樹「火花」を導入に、村上春樹作品の評価のされ方がいかにも曖昧であること、あるいはいかようにでも言えてしまうということから、そこには誤解があると指摘。そしてその誤解を生む原因が錯覚であり、具体的に言うと
?「文学とは、人の心を描くものである」
?「文学とは、ありのままの現実を描くものである」
という2つの錯覚について、その成り立ちを歴史を追いながら辿っていくという。その問題設定のシンプルさと、「そんなことできるの!?」という興味とで、どんどんページを繰ってしまう。それで、近代文学が成立したとされている明治時代、坪内逍遥「小説真髄」までさかのぼり、時代を下っていくという丁寧さは見事です。日本文学ヲタとして押さえておきたい固有名詞ももちろんたくさん出てくるので、勉強になります。

文学、あるいは純文学とは何かと言われてもよく分からないですよね。純文学こそが良いんだとか、ライトノベルとかミステリとかは文学として認めないとか、大衆小説と純文学の違いとか、芥川賞こそ権威があるだけでつまらないとか、いろんな意見があります。でもやっぱり「純文学とは」という定義が未だによくわからないということは、結局それは空虚なものでしかないのでしょう。だって芥川賞を獲った又吉直樹が、アメトークで千鳥大吾と「これは純文学か?」「純文学です」と言って笑いのネタにしているくらいですから。

文字ではどれだけ言葉を尽くしたって、現実は描けないし、人の心も描けない。であればやはり全ては錯覚にすぎないのでしょう。だからすべての文学作品は価値がなく取るに足らないものだというのではなくて、そこに良質な錯覚を引き起こさせてくれるものこそが本当に価値がある作品なのだと言えるのではないだろうか。そういう態度で接することによって、私たちの読書体験が前向きなものになる、と提案してくれる本です。

これは文学に限らず、あらゆる対象、もっと言えばあらゆる価値観についても言えることではないでしょうか。なにせ、すべての価値は幻想なのですから。例えばお金に価値があるのは、「多くの人が価値があると思っているから価値がある」に過ぎない。終章では宗教についても言及されていますが、僕はこれを読みながらアイドルのことを考えてしまいました(というかアイドルも宗教ですしね)。アイドルとヲタの関係においても、よい人間関係、信頼関係、あるいはワンチャンという、あらゆる種類の錯覚を引き起こしてくれる存在こそが、よいアイドルです。

そしてその錯覚を楽しむことこそ、ヲタとしての腕の見せどころでしょう。文学でも宗教でもアイドルでも音楽のジャンルでも映画、ドラマ、マンガ、何でもいいですが、様々なジャンルのコンテンツをハナから「騙されてるだけじゃん」と馬鹿にしてニヒルな態度を取ることもできますが、そういう生き方は人生楽しくないだろうなと思います。

それにしても、坪内逍遥が「小説神髄」で、「小説がいかにスゴイか」ということをむちゃくちゃな理論で書いてるというのが面白かったな。これこそクリエイターの本領発揮というか、ヲタク的想像力の発動じゃないですか。同人誌的ですよね。それでこれだけ後世まで名前が残せているのだからうらやましい。その時代の中でまったく新しかったってのもあるんだろうけど。僕もそういうものを目指したいね。


そんなことを考えさせてくれる本なので、日本文学とかに興味がある人はぜひ読もう。

文学の読み方 (星海社新書)

文学の読み方 (星海社新書)