ちろうのレイブル日記

本当によい教育を考えるためのブログです

学校への依存度を減らす

岡田斗司夫ゼミを聞いていてまたインスパイアされたので備忘録的に書く。

 

歴史を勉強するのは、今あるものを「当たり前」と思ってしまわないためだ。今回は学校教育について考えたいと思う。特に小学校、中学校。いわゆる義務教育と言われるヤツですね。マジでこんなもん時代に合わなくなっていて、ましてやもっと歴史の浅い中学受験だの私立校だのと躍起になっているのは滑稽と言わざるを得ない。(高偏差値校に)行きたい人・行ける人は良いが、受験という特殊な分野のゲームで全然勝てないのに競わされている子供は可哀想。

 

「全員が一律に(強制的に)就学」というのは工場労働者、ロボット(byゆたぼん)を育成するための方策だ。
これ意地悪で言っているんじゃなくてマジです。
「時間を守ること」「言われたことに従うこと」「反復作業を嫌がらないこと」が求められた。
学制が発布された当初は百姓は無視してた。就学率30%弱。学校行かせるヒマがあったら仕事を教えて働かせたいからだ。そこで国としては、労働力としての子供を家庭から引き剥がしたかった。

 

何も考えないで言われたことをきちんとこなす人材は、産業革命の波に乗る、そのちょっと後には軍国教育を植え付けるためにはよく機能したのだろう。だけどもう時代は変わった。一言で言うと「情報革命」と「評価経済社会」(by岡田斗司夫)。ITが十分にいきわたって、AIが普及して人間がしなければいけない労働が激的に少なくなった。だったら社会の仕組みも変わっても良いはずだ。いや変わらないとまずいでしょう。しかし慣性が働くから、これまでのやり方が維持されている。今の親世代も十分に教育(洗脳)されていて、なかなか大きく舵が切れない。むろん官僚も。記述式のテストを導入とか、アクティブラーニングがどうとかごちゃごちゃ言っている。あ、教員免許の更新制度とかいうクソな仕組みも作ってくれたな。これは時代に逆行していると言わざるを得ない。教員のなり手が不足しているというのに、間口を狭めてどうする。むしろ教員免許制度の撤廃だろ。

 

 

これは『未来改造のススメ』(岡田斗司夫小飼弾)で読んだんだけど、小学校の家庭科の調理実習で、事故を起こしちゃいけないから包丁も火も使わせないとかあるって。どこぞのファミレスのキッチンかよ!?(どこだっけ?)

 

色々な方面に目くばせした結果、要するにクレームとかモンペとか恐れた結果、こんなところまで来ている。バカすぎるでしょ。小学校高学年が火を見たことがないとか、魚が切り身で泳いでいると思っているとか、よく聞きますね。一方でお金持ちで教養ある親に育てられると、キャンプに行ったりレジャー活動も豊富にできる。よほど生きる力が身につく。お金持ちのボンボンが常識がないとか教養がないとか言いたくなる気持ちがあるけど、逆ですよ。親も子供も平凡な庶民こそ、酷いことになる。

学校に求めすぎ&任せすぎなんですよね。学制が始まったころ、無視して百姓仕事を教えていたころを思い出そうよ。やっぱり親がまずは生きる力を教えるのが基本でしょう。

 

教科書の道徳教育はクソという話。道徳ならIT企業の方がうまく教えられる。

これも岡田斗司夫ゼミで見た話。
メルカリが小学校で「自分の持ちものを出品して売る」っていう体験授業をやったらしい。
質問「出品する服に汚れがあるんですがそのことを書かなくていいか?」
「汚れや破れなどのマイナスポイントは、隠さず正直に書くのが基本」そういうことを教えてくれる。
そこを隠してちょろまかして売ったりすれば、あとでトラブルになったり大きなマイナスを被るからだ。これこそがIT企業の方が実感を持って道徳を教えられる、という話。僕は本当にそう思いました。だって誠実であることとか評価が全てなんですから。これ教科書で教えられるんでしょうか?ましてや教科として成績を付けるとか。どうゆうことなのだろう。

 

 

そんなわけで、僕は学校の役割とか、学校に対する期待、先生への負担を縮小していくことが重要だと思う。学校にはまあ悪くない(便利な)機能もある。アクティビティとか。そこは有効に使う。色んな教科に広くアクセスしてくれるのはきっかけとしてはいい。今や科学も歴史も英語も教えられない親が多いからね~。

 

学校側からも、何でもやってあげるという姿勢(部活とか進学相談とか)を辞める、何でも責任を引き受けようとしない(放課後の生徒の行動とか知らん)、授業とかはアウトソーシング(地域の人を使う、手間のかかる資料作りをしない)する必要があると思う。要らん会議とか手書きの資料作りとかやめよう。

 

とにかく意識改革だ。これを発信したい。