ちろうのレイブル日記

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千葉雅也講演会「書きながら生活する」at中央大学多摩キャンパス

2019年11月2日(土)、中央大学の多摩キャンパスに行ってきた。
目的は文学会主催、千葉雅也講演会「書きながら生活する」

 

多摩モノレールに乗って、「中央大学・明星大学」という駅で降りる。
改札を出て左に明星大学、右に中央大学。切り開いた山の中に大きな校舎が屹立している。学術都市かよ。逆にここには大学しかないのか?と驚く。
会場の8号館に至る通路(スロープ)に屋台が並んでいたので見る。
汁物が食べたいなあと思っているところにちょうど豚汁があったので買う。大盛り300円。
大盛りの割にはあんまり入れてくれないし具も控えめだった。
もうちょっと歩けば学食があったから、先にそこに行けば良かった。ちなみに講演会の休憩の15分の間にうどんを食った。


「二郎焼きそば」とかいう出店で、学生が声を合わせて焼きそばを乗せた器にもやしを大量に乗せるというパフォーマンスをしていた。しつこいくらいに「よいしょー」とやっていて(本当にしつこいのだ、20回くらい)、終わったと思ったらそれをテーブルに置くまでの一動作で、盛り過ぎたもやしの3割くらいが鉄板と仕切りのあいだに零れ落ちていた。食べ物を粗末にするな、と思った。


15:00~
千葉雅也講演会「書きながら生活する」

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千葉雅也講演会「書きながら生活する」

千葉雅也氏と言えば、名前を最初に知ったのは2012年ゲンロン刊行の思想地図β「日本2.0」のころ。
ただ哲学のこととか難しくて、その後単著も出されているが僕には読めなかったのだが、「勉強の哲学 来たるべきバカのために」以降グッと注目している。特にTwitterが良い。それもそのはず、2014年に『別のしかたで』という本でTwitterでの投稿をもとにした本を出しているくらいで、Twitterをウォッチしているだけで良質な思想書を読んでいるようなお得感がある。

(ちな、2日前の代官山蔦屋書店の小川さやか氏とのトークイベントも行ってる。どんだけハマっているんだ)

 

そして今日のテーマはまさに、生活の中にいかにして「書く」という行為を滑り込ませるかというもので、そのときにTwitterが重要なツールになるのだ。生活をしていて、例えば喫茶店とかで目に入ったもの、耳に聞こえてきたことの違和感や気づきをTwitterに書く。そこから抽象的な思考を深めていく。それを思いついたそばから記録していく。並行して走らせている仕事につなげていく。いつの間にか仕事が始まっているという状態。そういうことをしているのだそうだ。

 

本当にSNSの使い方って人それぞれで、メルマガ(ブロマガ)で定期的に書く人もいれば、noteが流行っていたり、ニコ生放送を未だに続けている人もいる。ただTwitterに関しては本当に嫌気がさす人が多く、ぱったり更新しなくなったり、告知とRTしかしなかったり、アカウント自体削除してしまう(あずまん泣)例もある。まともな感覚であれば、ある程度フォロワーが多くてかつ思想的な発信をする人であれば山のように届くクソリプに嫌気がさすのは当然だろう。普通にタイムラインを眺めていても、ほとんど嫉妬とマウンティングとルサンチマンフェイクニュースとネコの動画と安っぽいポエムに覆われている。

 

そんな中、千葉さんは、140字という枠が定められている(書くと同時に締め切りがくる)、それゆえすぐに書けて投稿できる、連投もできる、フィードバックがある、という点を肯定的にとらえて積極的に使用している稀有な例だと思う。

 

このTwitterの性質を好意的にとらえるという姿勢はすごく共感していて、僕も知らず知らずのうちに影響を受けており、ここ1年くらいTwitterを熱心に書いている。やはり書くという行為を継続的にやりたいからだ。これがブログを更新しようとすると、(これは僕の悪い癖ですが)どっしりと構えて数千字の文章を書いてしまう(だから誰にも読まれない泣)。そもそもエントリ立てるほどでもないしな~という時、Twitterはとりあえずの感想を書きつけるのに重宝する。

 

僕も実は今ちょっとした文章を書き溜めていて、それが書きたいけどなかなか進まないという状態なので、このテーマやメソッドが今の僕にとってドンピシャだったのだ。僕の場合はそこまで思考を深めるとか、アーカイブをまとめて作品にするというところまで至っていないので、まだまだ修練が足りない。

そう。構えてはダメなのだ。「さあ、やるぞ」じゃダメなのだ。ちょこちょこ書いているものが、後で振り返ると大きなものが積み上がっているという状態をめざす。こういう習慣からアプローチするという方法は、本質的だけど軽視されがちだ。

そういうわけで、めちゃめちゃ満足度が高い講演会だった。

 

人はもっと書くべきだ。気づきを楽しむために。思想を深めるために。それなのに、自分の好みをただ主張するだけとか、ヘイトや不満やルサンチマンをまき散らすだけとか、人の足を引っ張るためにTwitterを使っている人が多い気がする。それは非常に貧しいことだ。僕もしばらくTwitterを書くことの柱として頑張っていこうと思います。書きたいことを書く。クソリプは容赦なくブロックだ!


メモ:
・この世界には2種類の作品がある
●ただファンタスム(幻想)を上手に描こうとする。あこがれの生活、理想の異性(エンタメはこの傾向が強い)=ダメな作品
●作者の思い通りにならないところが表れている。書いていくところにミスがある(芸術性のあるエンタメにはファンタスムの破れがある)=良い作品


・構えるな。ついでにやれ。
・ファンタスムの破れを描け。
・字数制限がない原稿は書けない、と心得るべき

(800字、2000字、8000字で書ける内容の枠(規模感)をとらえる。なぜ人は50枚という制限のある論文が書けるのか?)
・論文というのは、水漏れがあるのが面白いんです。中島隆博
・カリスマには破れがある。
・我執、コントロール欲望を減らす。

・文章のプロジェクトを「塊」ではなく「断片の寄せ集め」として捉える
・日々、ついでに書いた断片を溜めておく。
・有限化=ツイッター、140字の枠

・画家の段階、とにかく書き出す→細工師の段階、編集
・ドラフト段階と編集段階をはっきり分ける
・自分ひとりで語りおろしの仕事をやる感じ
・「書かないで書く」

・ふきのとうのような人間になれ(ソフトクリームやハンバーグではダメ)

・外在的な枠、子供の時の親など
・絶対的な自由はない。何の枠もない状態はない。
・何らかの枠を「仮に採用」してみる。
・特定の枠を絶対視しない=アイロニー
・別の枠への切り替えができる=ユーモア